さよならだけが人生だ!!

今日は今年の最も貴重な一日となった。初めてお茶事を体験したのだ。招いてくださったのは、手の間のイベントを通じて知り合ったIさんという素敵なお姉さん。客は陶芸家のUさん、デザインディレクターのKさん、アートディレクターのGさん、そして不肖私。学生時代に2年ほど裏千家の先生のところへ通ったが、お茶事どころかお茶会すらろくに経験のない私は、楽しみ半分・不安半分で当日を迎えた。

 

悩んだのは服装だ。気軽な集まりと聞いてはいても、パンツスタイルよりスカートがベターだろう。茶室に入る前に白い靴下にはきかえるなら、ストッキングよりもハイソックスの方が脱ぎ着しやすいはず。待合いに出入りするのにロングブーツは他の人に迷惑だからパンプスで・・・と考えていると、予想以上の薄着となってしまった。しかし私は考えた。今どきの茶室は冷暖房完備かも、と。

 

早良区石釜にある「雪折庵」に着いた頃から、粉雪が舞い始めた。木戸には「在釜」の提灯が。正客であるUさんを先頭に庵の中へ進むと、蕗の葉や椿の緑に雪がうっすらと降り積もり、赤い実がところどころ灯火のように顔をのぞかせている。そのコントラストの美しさ、絵のような荘厳さに途端に胸がキュンとなった。上質な小説の冒頭から、いっきにのめり込んでしまうのと同じトリップ感。久しぶりにときめいた。

 

待合いで白湯をいただき、待つことしばし。火鉢の炭も灰もきれいなこと!そして、コートを脱いだ身のシンシンと冷えること!席入りが始まると、正客から順次、庭を歩いて茶室のにじり口へ。外は相変わらずの粉雪。足下はわらじ、頭には竹皮で編んだ笠を差し掛けて歩く。笠に粉雪が降りかかり、耳元をザザーッと走り抜ける音は風情の極み。初めて聞くその音に、松籟が重なった。

 

茶室はさながら宇宙だ。4畳半を支配するのは薄暗闇で、すべての輪郭がにじんでいる。朱を塗りつけたようにぼわっと炉を照らす炭の火が、唯一の寄る辺。ホテルの間接照明にはイラッとするのに、小空間の闇に微かな光が創り出すあわいの世界には、こんなにも心が落ち着くとは思いもしなかった。身体がふわりと浮くような神秘的な感覚に、私はボーッと酔ってしまった。

 

粥茶事は、10時間ほど水に浸けておいた米を羽釜で炊いていく。それをご馳走とお酒とともに味わう。湯に浮かぶサラサラの粥から、もっちりとふくらんだ粥まで、刻々と変化する粥をおかわりすること4回。粥に酒。かなり美味しい組み合わせだ。目が慣れてくるとは言え、ほの暗い空間では、次々に運ばれる料理や器はおぼろげにしか見えない。だからこそ五感が敏感になって、食材の味ひとつにひとつが深まるし、酒器や皿も手触りでその素晴らしさがわかる。

 

ふとUさんが、「これは私の師匠が焼いた酒器です」と言って由来を話し始めた。ひょうたん徳利の胴に刻まれているのは、晩唐の詩人・于武陵の詩。「この盃を受けてくれ/どうぞなみなみつがせておくれ/花に嵐のたとえもあるぞ/さよならだけが人生だ」と、Uさんが井伏鱒二の漢詩訳を詠う。互いの盃に酒を満たすと、私の胸もまた感慨に満たされた。明日は戦場へと向かう武士の心境だ。そう、この同じひと時は、二度とない。中立の後、庭の腰掛けに並んでお菓子をいただき、ドラの音を合図に改めて茶室へ。濃茶、薄茶と楽しんだ。

 

世界中に飲食のセレモニーは多いが、茶事ほどの繊細さ複雑さ完成度を誇るセレモニーは他にあるだろうか。いったいこの日本の文化は何に根ざすのか。薄明かりに浮かぶ軸や花を愛でながら、道具や料理や酒、茶を楽しむ。この一期一会のために尽くされる、亭主のもてなしの心。そこに編み込まれる四季の風情と美。私の未熟な経験値でさえ感じ入ることができるのは、やはり日本人のDNAなのか。道具にしろ、花にしろ、書にしろ、すべてが噛み合って初めて美しいのだということが、そしてそれをいきいきとした心ある時間に変えるのが料理と酒なのだということが、実感としてわかった。これぞまさに日本の食文化の極み。今までバラバラに理解していたものが、私の中で、ようやく同じ方向を向いたような気がした。

 

そしてわかったことがもうひとつ。現代でも茶室は凍えるほど寒いということ。木と紙と土でできた建物は、ワンピース1枚では歯の根が合わない。が、不思議なことに自らを励ませば、耐えられないほどでもない。きっと、いつもは働かない神経が作用して、体内の感覚変化をおこさせたのだろう。お陰でどんなに飲んでも酔っぱらうこともなく、正座も続けられた。人間、緊張感が大事なんですね。