銭湯通い。

セルーのキャンプロッジ。森の中の食堂の回りには、ハンモックが並び、これに寝そべって過ごす時間は素晴らしかった。
セルーのキャンプロッジ。森の中の食堂の回りには、ハンモックが並び、これに寝そべって過ごす時間は素晴らしかった。

今週、給湯器が壊れた。交換は来週火曜まで無理ということで、銭湯通いをすることになった。この寒い季節についてない、と嘆いたが、どうせなら銭湯生活を楽しんでみようと気をとり直し、近所にある昔ながらの『大学湯』のみならず、未体験のスーパー銭湯というものにも足をのばしてみることに。明日の日曜は、近郊の温泉に行ってみるつもりだ。

 

お湯が出なくなって困るのは、皿洗いや洗面時の冷たさだ。できるだけ洗い物を作りたくないという心理が働き、いっきに料理に対するモチベーションが下がってしまった。中華鍋ひとつでできるチャンポンやホーロー鍋で煮込むだけのシチューなど、調理法においてもその手抜きぶりは我ながら凄まじい。しかし何より、長年の習慣である朝風呂あるいは朝シャワーができないことが辛い。いつの間にやら、贅沢な身体になったものだ。

 

先日、宮古島で泊まった民宿は、私の部屋だけシャワーがついていた。しかし、いつまで待っても出てくるのは水。いくら春の陽気の宮古島と言えど、さすがに水シャワーはきつい。すっかり冷え切った身体を抱えて布団に潜り込むと、ふとサファリのキャンプを思い出した。

 

それはタンザニアにあるセルー・ゲームリザーブでのこと。大河を見下ろす丘の上に立つテンティッドキャンプは、連日、灼熱の中にあった。そこでのシャワーは、ルフィジ川から引いてきた水。簡単に濾過しただけの水は茶色く濁ったままで温度は低い。どんなに暑くても水のシャワーを浴びると身体はいっきに冷えた。

 

森の中の食堂はさすがにイタリア人が経営するだけあって、料理は美味しかった。が、水差しに入った水は、たくさんのライムを浮かべても生臭く、缶ビールは冷蔵庫(らしき四角い箱)から出てくるが全く冷えていない。

 

キャンプ滞在中に大晦日を迎えた。その夜は、宿泊客の7〜8人ほどが食後もテントに引き上げず、裸電球が照らす食堂で雑音混じりのラジオに耳を傾けながら、ただ静かに時を過ごしていた。見上げる夜空は満天の星空というよりも、吸い込まれそうな漆黒の闇。時が渋滞して、流れを遅らせているような気がした。やがて何気ない口調でラジオが新年を告げたとき、キャンプのオーナーがこれまた静かにスパークリングワインを開け、客にふるまった。みな「ハッピーニューイヤー」の黙礼をし、飲み干すと再び、裸電球1個の静寂が辺りを覆った。静かな静かな年明けのスパークリングワインは、常温だった。

 

日本での暮らしが必要以上の清潔さと快適さで埋め尽くされているので、私たちはそのレベルが当然だと思い込み、小さな不都合にも腹を立てる。しかし存外、無ければ無いで人間は順応できるものだ。数十年前までは、洗面器を抱えて銭湯通いをすることも、冬の水仕事で手がアカギレすることも、特別なことではなかったはず。もっと生きる力をあげないとしんどくなるぞ!と自らに言い聞かせ、今夜も寒空の下、銭湯に通う。